「吉原の花」が日本に里帰り

更新日:

《吉原の花》高精細複製画 江戸時代 寛政3~4(1791~1792)年頃 紙本着色 栃木市蔵 原本:ワズワース・アセーニアム美術館所蔵(アメリカ・コネチカット州ハートフォード)

 栃木市ゆかりの歌麿の肉筆画大作「雪月花」三幅対の一つ「吉原の花」(アメリカ合衆国・ワズワース・アセーニアム蔵)が、現在、東京藝術大学美術館にて開催中の「大吉原展」(3月26日~5月19日)に通期で展示されています。
平成29年(2017)に岡田美術館で開催された「歌麿大作『深川の雪』と『吉原の花』―138年ぶりの再会―」以来の日本への里帰りとなります。
この作品は、国内では唯一栃木市美術館所蔵の高密度複製画で見ることはできますが、実物をご覧いただけるまたとない機会です。
 「吉原の花」はチラシの表紙になっているにもかかわらず、展示位置等、必ずしもメインという扱いではなく、その前を通りすぎてしまう人もみられます。
さらに残念なことにキャプションには栃木についての記述はありません。
(図録の説明では触れていますが)展覧会の主旨からするとやむを得ないのかもしれませんが。
ただ、この作品をこれまでにないほど、数センチの間近な距離で見ることができ、歌麿の筆の細かいタッチや描写を鑑賞することができます。
皆様、ぜひじっくりとご覧いただき、絵の前で栃木とのかかわりについて、つぶやいていただけるのもよろしいかなと思います。
   この展覧会では、ほかにも歌麿の肉筆画「納涼美人図(千葉市美術館蔵)」(後期のみ)をはじめ多くの歌麿作品が出品されています。
また、これまであまり見ることのなかった大英博物館蔵の作品も展示され、さらに吉原の模型も注目を集めています。
ぜひ、多くの皆様に上野へ足をお運びいただき、じっくりとご鑑賞いただければと思います。
「大吉原展」の詳細は公式ホームページをご覧ください。大吉原展のHPはこちら
 御覧になる時の参考までに、これまでの文献をもとに「吉原の花」の来歴と特徴についてご紹介します。

1.「吉原の花」の来歴
 喜多川歌麿が栃木町にて制作したとされる肉筆画大作「雪月花」は、明治12年(1879)11月23日に当時の栃木町定願寺にて開催された展観に当地の豪商・善野家が出品したと記録されている。
 その後、明治20年(1887)にはパリの美術商ビングが大英博物館に「雪」と「花」のコロタイプを納めていることから、この時期にはすでに「雪月花」は栃木を離れ、ヨーロッパにわたっていたものと推定される。
フランスの小説家エドモン・ド・ゴンクールは、1891年(明治24)刊行の著書『歌麿』のなかで、ビングの店で「雪」を見たと記し、「花」についても言及している。
戦後になり「吉原の花」は、昭和29年(1954)パリで開催された美術商ベレスの歌麿展に出品され、昭和32年(1957)にアメリカのワズワース・アセーニアム美術館が購入して現在に至っている。
 歌麿はこの三部作を「品川の月」「吉原の花」「深川の雪」の順に制作したとされている。
具体的には「品川の月」が天明8年(1788)、「吉原の花」が寛政3~5年(1791~93)、「深川の雪」が享和2年~文化3年(1802~06)と推定されている。

2.「吉原の花」の特徴
 この作品は、紙本著色、1面の元軸装、縦186.7×横256.9㎝の大きさで、吉原遊郭の大通り、仲の町に面した引手茶屋と路上を行き来する女性や子供、総計52人もの群像がはなやかに描かれている。
 季節は春。吉原では他所から花をつけた桜の木を運んできて移植し、桜並木をつくっていたようだ。
茶屋は仲の町と遊女屋が立ち並ぶ通りの角にあるが、名前はわからない。
 一階の左にある暖簾に名前が白く染め抜かれているようだが、外を見ている女性が暖簾を絞っているのでそれは読み取れない。
一階では、左手から菖蒲模様の打掛と龍の帯を締めた 花魁 (おいらん) が、揃いの衣装を着けた 禿(かむろ) 振袖新造(ふりそでしんぞう) を数人引き連れて仲の町を歩いてくる。店にいる禿がそれを出迎える。
中央には浪に千鳥模様の黒い打掛を羽織った花魁が、 毛氈(もうせん) に座り通りを眺めている。
それを禿や振袖新造が囲んでいる。二人の花魁はお互いに視線を合わせているようにも見え、それぞれ打掛の下に赤と白の着物を身につけ、二人の主役を紅白で対比させている。
右手には縁側の縁に腰かけて 煙管(きせる) を持つ女芸者に遊女が話しかけている。桜の下に立つ茶色の着物を着て扇子を持つ 男髷(おとこまげ) の人物は、羽織に 富本節(とみもとぶし) の家紋があることから、女芸者が男装しているものと思われる。
 一方、栃木との関係について注目されるのは、中央部の座敷の端近くに立って、幼子を抱くこの女主人のようにも見える女性の存在である。
この女性のつけている家紋について、小林忠(2017年)では次のように説明している。
「栃木の裕福な商家に三家の釜屋(屋号)があり、それら善野家の家紋がいずれも「九枚笹(くまいざさ) 」 という紋であり、(中略)「月」と「雪」にもその紋をつけた登場人物が見出せる。
「花」でもひときわ目立つ女主人の紋に「九枚笹」が表されていたように思われる。
残念ながら現状ではその上に白い絵具で後塗りされていて明瞭ではないが、本図もまた善野家の関与を伝える明瞭な痕跡を入れていたのではないかと推察されるのである。きわめて興味深い指摘である。
 二階座敷に目を向けてみると、武家の女性たちの一行が、酒食に興じながら舞踊を楽しんでいる。
中央の少女が演じているのは花笠踊りで、奥の衝立の向こうでは次の演目の準備をしている様子が垣間見える。舞の後ろでは、三味線や 小鼓 (こつづみ) 大鼓 (おおかわ) 、太鼓など、5人の芸者たちにより賑やかな楽の音が演奏されている。
床の間には江戸で人気の英一蝶 (はなぶさいっちょう) の、「 布袋 (ほてい) 唐子(からこ) 」の掛軸。
武家の婦人たちは朱塗りの盃に酒を受け、鯛の尾頭付きも含めた豪勢なご馳走に舌鼓を打ちながら、舞や楽の音を楽しんでいる。
この二階の様子についても前述の小林(2017)は、次のような当時の江戸の情勢を背景に栃木との関係に触れた記述をしている。
「歌麿の作風から本図は寛政3、4年(1971,2)の作と推定されているので、諸事倹約を強制する寛政改革の真っ盛りの時期に、模範たるべき武家の婦人たちが何たる様かと、風刺の辛みが盛られているかのようだ。
そうと思えば、主客の婦人の着衣の紋が徳川家の三葉葵の紋所にも見えてくる。歌麿画には時に時勢批判のあぶない毒が盛られていることに、栃木の知人である通用亭徳成は、別の機会にはっきり忠告をしているのである。
「杭打ち図」という歌麿画に、「出る杭のうたるる事をさとりなばふらふらもせず後くいもせず」という狂歌を記していることが知られている。
栃木という江戸から遠く離れた地方の人たちのために描いた肉筆画とはいえ、当時のことなので危険極まりない表現であったといえよう。」

 このように大作「吉原の花」の中からは様々な物語を読み取ることができます。
皆様も是非じっくりとご鑑賞いただき、新たな発見をしていただきたいと思います。
なお、ここでは小林忠(「喜多川歌麿「雪月花」三部作と「花」「雪」の夢の再会」p7(岡田美術館「喜多川歌麿大作『雪月花』」、2017年))による詳細な記述を一部引用させていただきました。
このほかにも「吉原の花」について言及した文献はたくさんありますが、主なものを以下に紹介させていただきます。

参考文献
『喜多川歌麿展』(大英博物館・千葉市美術館主催、1995年)
『喜多川歌麿 深川の雪』(岡田美術館、2014年)
『喜多川歌麿 大作「雪月花」』(岡田美術館、2017年)
『大吉原展』(東京藝術大学美術館、2024年)

HOME

Copyright© 歌麿を活かしたまちづくり協議会(栃木市)【公式ホームページ】 , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.