歌麿カウヒイ”がなぜ「カウヒイ」なのか、協議会の有志によるコラム

“歌麿カウヒイ”
コーヒーは17世紀、江戸時代初期に初めて日本に渡ったとされている。

だが、後世の我々が当時のコーヒー事情を知る手がかりを得られるのは、19世紀に入り太田南畝(おおたなんぽ)がその体験を初めて書き留めていたからにほかならない。

幕府の一役人に過ぎなかった太田南畝、大老 田沼意次の世、全国的なブームとなった狂歌の世界では、“四方赤良” (よものあから)の狂歌師名を持った狂歌の第一人者、大御所であった。

そんな南畝が1804年、出張先の長崎に滞在した折、南蛮船(オランダ船)の船上で、初めて黒色のお茶ともいえるものを口にする機会があった。それが彼のコーヒーとの初めての遭遇だった。

第一声は、「苦い!」であったとか。記録によれば、彼はこの飲み物を“カウヒイ”と書き記している。

初めての“カウヒイ”との遭遇はまさに“苦い経験”であったようだ。

浮世絵師喜多川歌麿はこの南畝と同時代を生き、自らも狂歌師名“筆の綾丸”(ふでのあやまる)を持ち、狂歌もたしなんだとされる。

狂歌師“筆の綾丸”の評価は、浮世絵師“歌麿”とは異なり、特筆するほどではなかったらしい。が、歌麿が浮世絵師として世に出るきっかけを作ったとされる挿絵が描かれたのは、いわゆる「狂歌絵本」であったことを考えると、狂歌は歌麿にとっては恩人、狂歌無しには世界的な評価と名声を得た美人画浮世絵師歌麿の誕生はなかったかもしれない。

目を栃木に移すと、歌麿のスポンサーであったとされる栃木の豪商、四代目善野喜兵衛、狂歌名 通用亭徳成(つうようてとくなり)は、商売で江戸と栃木を行き来しながら狂歌を含め、江戸の町人文化を栃木に持ち込み、“小江戸文化都市栃木”誕生の礎を築いた貢献者の一人と評価されている。

歌麿の作品には他の狂歌師と比べ、通用亭の名が格段に頻繁に出てくるところから、歌麿との関係はかなり濃密なものであったことが想像される。同時にそのことが、通用亭が狂歌師としても高い評価をえていたことの証左とも言える。

四方赤良、筆の綾丸、通用亭徳成、三人を狂歌とコーヒーにかけて、『この三人が、狂歌連(狂歌が好きな輩の同好会)の席で、あるいは江戸の街角茶屋で、南畝のすすめでくだんの“カウヒイ”を口にし、ご相伴した“綾丸”と“徳成”が、「やっぱり苦いね」、と発した』などと書いたら、寓話にもならない荒唐無稽な作り話、と一笑に付されてしまうのがオチだろうか。とはいえ、苦いカウヒイが、歌麿がコーヒーを口にしたとの“妄想”をブレンドするだけで、芳醇な“狂歌の香りとコク”を感じさせるコーヒーに大変身するような気がしないでもない。

そこで、狂歌もどきを一首、

『蜀山の 苦き南蛮 カウヒイが 今蔵の街で “歌麿ブレンド”』 巴波乃太鼓持

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