二つ目は、天明年間末から蔦重が力を注いで発行した狂歌に絵を加える狂歌絵本を通しての繋がりです。 天明7年に松平定信が老中となり寛政の改革が始まることをきっかけに、南畝らは狂歌界の活動から身を引いていきます。
このような狂歌ブームが一旦沈静化していく中で蔦重が仕掛けたのが、狂歌絵本の作成でした。
そして、狂歌師と浮世絵師をコラボさせるこの企画のエースとなったのが喜多川歌麿でした。 蔦重は歌麿の代表作となる「画本虫撰(天明8年)」などの狂歌絵本を次々と出版していきます。その中で歌麿絵、 蔦重出版の「絵本譬喩節(天明9年)」「龢謌夷(天明9年)」「銀世界(寛政2年)」「普賢像(寛政2年)」には、栃木の狂歌師である小袖裾長らの狂歌が掲載されています。
三つ目は、歌麿の描く美人画への狂歌賛の掲載です。寛政2年に幕府は出版統制令を発し、このあおりを受けた蔦重は翌寛政3年に罰金刑を受けることになります。
これにより路線転換を迫られた蔦重は、歌麿の美人画大首絵を出版することで、再び江戸出版界をリードする存在となります。
この歌麿の美人画によせる狂歌賛にも、多くの栃木の狂歌師が登場します。 例えば、寛政5年に蔦重から出版された全8図の遊女シリ ーズには、栃木の狂歌師である通用徳成が2首、酒桶数在と川岸松蔭がそれぞれ1首ずつ賛を寄せています。
このシリーズにおいては、歌麿と栃木在住の狂歌師との間にスポンサー的な特別な関係が生まれ、それがこれらの作品を制作するきっかけとなったと考えられています。寛政7年以降、歌麿と蔦重の関係がやや疎遠になっていく中でも、通用亭徳成(4代目善野喜兵衛)の賛は頻繋に歌麿作品に登場し 二人の関係性は続いていくことになります。
以上、3 つの点において栃木の町人(狂歌師)たちは、大田南畝や歌麿との交流を通じて、その版元である蔦屋重三郎とも接点を持っていたであろうと考えられます。
それは、蔦重の営む耕書堂(日本橋通油町)の店先であったり、 吉原の御座敷、あるいは栃木商人の出先の江戸の店であったかもしれません。
また、曲亭馬琴の記録によれば、蔦重は天明8年に山東京伝らとともに日光に回遊しています。そして、この時、歌麿の縁で蔦重が栃木に立ち寄った可能性も皆無とは言えません。
(文責:歌麿を活かしたまちづくり協議会 研修部会 阿部 治)