喜多川歌麿のプロフィール

生年は宝暦3年 (1753年)から宝暦8年 (1758年)頃ではない かと推察される。

出生地は不明だが、江戸以外に、栃木出生説、京都出生栃木成長説などもこれまであげられている。

 狩野派の絵師鳥山石燕の門人として北川豊章と名乗り、安永4年 (1775年)挿絵を描く画エとしてデビューした。

その後、 天明元年 (1781年)から「歌麿」と号し、版元蔦屋重三郎の もとで数々の狂歌絵本を手がけ頭角を現す。

寛政年間 (1789 ~1801年)にはいると画期的な美人大首絵を発表し、美人画家としての地位を確立。

歌麿人気が江戸で高まると同時 に、江戸幕府は、世を乱すものとして歌麿の絵に制約を加えたが、歌麿はそうした圧力を判じ絵などで巧みにかわしながら美人画を描き続けた。

この天明年間 (1781-1789年)から享和年間 (1801-1804年)にかけて歌麿は、何度となく栃木を訪れたと考えられる。

文化元年 (1804年)「豊臣秀吉」を題材にした作品が幕府の逆鱗に触れ、手鎖50日の処罰を受ける。

その心労と過労のためか、文化3年 (1806年)歌麿は54歳で没したとされる。墓は世田谷区北烏山の専光寺にある。

※内容に関しましては、一部検証中の事項がこざいます。 あらかじめこ了承ください。

歌麿と栃木について

江戸時代、栃木の街は巴波川(うずまがわ)の舟運で、米、酒、醤油、材木などをあつかう商業都市として繁栄しました。

有力商人は栃木と江戸、両地に屋敷を構えていました。 

この地には、江戸の経済人、文化人と積極的に交流していた記録が今も残されています。

歌麿もそのなかの一人だったのでしょう。

「歌麿と栃木散策絵図」より抜粋

神明宮
栃木の地名はこの宮からとの発祥説がある。

歌麿と同時期の江戸の文化人亀田鵬斎の石灯籠が境内に。
奉献者名には栃木の商人たちの名が。

石灯籠

歌麿と栃木の狂歌師の接点

江戸に狂歌の文化が花開いた天明・寛政の時代。
当時の江戸の狂歌本には数多くの栃木の狂歌師の名が残ります。

そして歌麿自身も「筆綾丸」の名で狂歌をたしなみました。

狂歌の絆は、栃木と江戸と歌麿の心を結んだ、
そんな想像もふくらみます。

「歌麿と栃木散策絵図」より抜粋

肉筆画の大作 三幅「雪」「月」「花」

明治12年(1879年)、市内 の定願寺 (じょうがんじ)で三幅が展示された記録が残ります。
所蔵者は善野伊兵衛 (屋号:釜伊)といわれています。
通称 「雪」「月」「花」 と呼ばれる作品の 「月」、「花」はアメリカの二つの美術館が現在所蔵。「雪」は箱根町の岡田美術館の収蔵となっています。
この三幅がいつ描かれたのか、栃木で描かれたのか、江戸で描かれたのか、謎は残ります。

「歌麿と栃木散策絵図」より抜粋

栃木で発見された貴重な肉筆画

大作「雪」「月」「花」の三幅は 現在、栃木市を離れている。
しかし、数少ない歌麿肉筆画の中で、「女達磨図」 「鐘馗図」「三福神の相撲図」の肉筆画3点を栃木市立美術館が所蔵。

歌麿が栃木滞在中に商人の依頼に応じて筆をとったもの、と推察されている。

「歌麿と栃木散策絵図」より抜粋 「三福神の相撲図」、「鐘馗図」は現在 栃木市立美術館蔵

歌麿と栃木散策絵図

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歌麿と栃木散策絵図 表
歌麿と栃木散策絵図 裏

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